附録:  悪魔の方向

 診察室に人が入って来る。なぜか後ろ向きに歩いて来て、そのまま背中を向けて椅子に座る。
 患:「先生、助けて下さい。」
 医:「はい、どうしました?」
 患:「実は私は体の向きを変えるのが恐いのです。向きを変えてしまうと二度ともとの向きに戻れないような気がしてしまうのです。」
 医:「そうですか?そんなことはないでしょう。いまもしこちらを向いたとしても、またすぐに反対方向に向き直ればよいのですから。」
 患:「いえ、そのような単純な場合はあまり問題がないのですが、あちこちたくさんいろんな方向を向いているうちにそれらが合わさって、何かとんでもなく複雑な悪魔の方向を向いてしまい、もう二度ともとの方向、つまり本当の自分に戻れなくなってしまうに違いないという恐怖があるのです。」
 医:「ハハーン、よくある強迫神経症の一種ですな。心配ありませんよ。いいですか、あなたが今の方向を変えないという行動はつまり群の単位元なのです。」
 患:「?」
 医:「で、あらゆる方向への転回、つまりあらゆる元を何回積み重ねて行ったとしても、演算の結果は常に一つの元に過ぎないのですから、それには必ず逆元が存在するのです。」
 患:「・・・」
 医:「ですからあなたはどんな方向へどんな順番でどんなに複雑に体を回していっても、常に、あるたった一個の元によってあっという間に元に復することができるのです。悪魔の方向なんて存在しないことはお分かりですね。」

 患:「・・・・・・。」

 医:「・・・・・・。」

 患:「・・・・・・。」

 医:「・・・・・・。」

 患:「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 患者はついに立ち上がり、わき目も振らずに出て行く。

 その表情は見えなかった。


後日譚 あるいは落ち

 患:「先生、助けて下さい。」
 医:「はい、ああ、あなたですか。どうしました?」
 患:「私は今どちらを向いているか分からなくなったのです。」
 医:「まあまあ・・(ー ー;)」
 患:「先生、いまここに上下左右、四方向に回せる回転スイッチ  があるとしましょう。」
 医:「はい・・・(どこかで変なホームページでも見てきたな・・・)」
 患:「上に向いているスイッチが、あるとき右を向いていたらそれは上から直接右へ回されたものか、あるいはグルグル何回も回された挙句の結果なのかどっちか分かるでしょうか。」
 医:「いや、分からないですね。」
 患:「先生はそれで耐えられるのですか?」
 医:「・・・・」
 患:「それじゃあ、スイッチに長い糸が付いていて一回回すごとにスイッチに巻きついていくとしたらどうでしょう。右に一回回せばひと巻き、二回回せばふた巻き、回した回数だけ巻きつく。それから左へ同じ回数回せば糸はほどける。だからいまスイッチが右を向いていても、糸を見ればそれは単に右なのか、何回どちら回しのあとの右なのかが分かって、もとに戻る筋道が完全に分かるじゃありませんか。糸が付いていないスイッチだと、上に戻したつもりでも果たして本当に戻っているのかあるいはまだ糸が巻き付いているような偽の戻り方なのかが分からない。そんなの耐えられないじゃありませんか。」
 医:「・・・・」
 患:「ですから私は常に糸の巻き具合を意識して、歩いているときはいつでも曲がり角でしっかりと転回方向を確認しますし、電車に乗るときは地図を手放しません。人ごみでもみくちゃになったときなどはすぐにその場で元へ戻るまでグルグル回って糸をほどきます。そうしないといつなんどき悪魔の方向に踏み入ってしまわないとも限らないのです。グルグル回るダンスなんてとんでもない。」
 医:「しかしお見受けしたところ、あの、気を悪くしないで聞いて頂きたいのですが、あなたの体にはどうも、その、糸は付いてないように見えますが・・・・」
 患:「は?・・・・・・・・ そりゃあそうですよ先生。 先生、大丈夫ですか? 糸は私の頭の中、記憶にあるんですよ。ですから右へ回るとちゃんと左方向へ回って修正するまで気持ちが悪くて悪くて・・・」
 医:「そ、そうですよね(~_~;) しかしあなた、いろいろあちこち方向転換しているうちに自分でもどっちへ何回だったか分からなくなることありませんか。」
 患:「そうなのです。それが大問題なのです。今が全くその状態でどうしていいか分からないのです。」
 医:「ハハーン、そういうわけですか・・・・・。それなら心配はいりません。こう考えるのです。スイッチの例で言うと、糸の付いていないスイッチがどういう筋道で今の方向に至ったのかという履歴は、そのスイッチのどこにも残されていないのです。そうすると誰がいくら考えても原理的にそれは求めることが出来ないのです。つまりそれを求めるのは意味のないことなのです。ですから、あなたについて言えば、あなたがどんな道筋で今の方向に至ったのかは誰も知りませんし、あなたの体にもその印はないし、あなたの記憶も消えている。そうならば、その履歴はもう原理的に存在していないという以外にはないことなのではないではないですか? アレ?」
 患:「でも先生。」
 医:「はい。」
 患:「神様がご存知なのです。神様だけはずっと見ていらっしゃるのです。それをごまかすことはできません。」
 医:「そ、そうなんです!神様です。神様がずっと見ていらっしゃるのです。ですから悪魔が付け入る隙は全くないのですよ!\(^o^)/」

 

 医者の反省

 よしよし、今日はきれいに決めたぞ。しかし「ない」が一つか二つ多かったかな? あまり「ない」を繰り返していると今いったい肯定しているのか否定しているのか分かんなくなるぞ。(指を折りながら)存在して、いない、以外には、ないことなのでは、ないでは・・・・ ちくしょうっ、言葉にも糸を付けるべきだな。


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