時間感覚
朝目覚める度に、ああ、また朝か。こんなに早く次々と朝が来るなら、残りの人生はあっという間に過ぎてしまうではないかと恐ろしく思う。
若い時はこういうことはなかった。歳を取ると時間が速く過ぎるというが、本当だ。毎日毎日同じような一日があっという間に過ぎて行く。
もちろん、何かの都合であちこち飛び回ったり、いろんなことが次々起きたりする日はとても長く感じられ、午前中の出来事がまるで一週間前のように思われることさえあるのは今も同じだ。だが、そんな日が混じっていても、あとでまとめて思い出してみるとやはり日々はあっという間に過ぎている。
若い時(23歳)に一人で奈良へ旅行し、その昔中学三年の修学旅行で歩いた同じ場所を歩き、昔泊まった旅館を目にして、懐かしさに私は激しく感動した。9年も前のはるかな昔の体験を今こうして再確認することができようとは全く希有のことに違いない。こんな感激を味わう人は他にいるものだろうかと、真剣に思ったものだ。
それに引き換え、最近の9年間を考えてみると何ほどのこともない。つい最近のほんの一時期に過ぎないではないか。もし今9年ぶりにどこかの場所に立ったとしてもほとんど特別な感慨はないだろう。
子供の頃の一日あるいは一年間と、大人のそして老人の一日、一年間は長さが違うということへの言及はおびただしい。色々な言い方がされるが、新しい体験を次々に重ねる時期と、何も新しいことのない時期では時間の充実度が違うのだというのが共通した趣旨だろう。
ただ、新しい体験とか充実などという語で説明すると、個々人の事情や時期的な事情との連関を想起させるので事態をはっきりと掴めない憾みが残る。
私がこれまでにいちばん納得できた定量的?な説明は、
「人は経験としての時間(の長さ)を、それまでに生きた時間の総量を分母として把握する。」
というものである。(つまり主観的時間は年齢に反比例するというわけだが、世の中には恐ろしいことを言う人もいるもので、なんと年齢の三乗に反比例という説もある。信じたくない。)
とすれば、奈良での私の回顧は人生の23分の9、ほぼ4割を遡るものであったのである。大変な分量であったのである。
オリンピックで金メダルを獲得した中学三年の岩崎恭子さんが「今まで生きてきた中で一番幸せです。」と語って、多くの大人が苦笑したということがあったが、しかし彼女の言葉は中学三年生にもちゃんと大人と同じ感覚でとらえている人生の分母があるということを示している。大人はそれを忘れているのだ。
私は計算してみた。現在から人生を23分の9遡ると何時になるか。
その時期の私の職場は遠く離れた町にあった。仕事のこと、もう二度と見ることのできない人の顔、研修旅行のこと、私生活のできごと、などを思い出して、今そこに立ったらどうだろうと考えてみる。やはりそうだ。遥けくも来つるものかな、と思わずにはいられないだろう。
もし80歳まで生きたら、一日、一年はあっという間にたつだろう。20歳の4倍の速さだ(信じたくない説が正しければ64倍だ)。そのときにもし人生にやり残したことがあると思うなら、残りの日々は焦りの日々になるだろう。それは苦しいことに違いない。それを避けるためにはまだ若いうちにやり残しをなくすることだ。十分充実した人生であったと自覚してからなら、速く過ぎる日々も苦にならないだろう。今からでも遅くないから自覚を強めれば何とかなるだろうと思う。
しかし結果的にそれができなかったら・・・?
そのときは早めに訪れる「ぼけ」に期待するのがよかろうと思う。焦りを感じずゆったり過ごすためだ。これからでも遅くないから毎日ぼんやりと空虚な日々を重ねればそれはきっと実現するに違いない。
人生はどっちに転んでもうまく行くようにできているのだ?
はなはだ陳腐な教訓的結論になってしまったのは遺憾だが、それとは別に言い残したことがある。
「現に流れる時間の速さ」のことである。夢中のときは時のたつのが速く、退屈なときは遅いと感じるというではないか。実際にもその実感は確かにある。だから上に述べた「経験としての時間の長さ」と、「現に流れる時間の速さ」の感じ方は別の原理で決まっているといえそうだ。
「現に流れる時間の速さ」は単純には言い切れない。夢中であれば速く過ぎる。しかし出来事が多ければ時間が長く感じるから、このときは「経験としての時間の長さ」が関係してくるのかもしれない。
たった一つのことを夢中でやると時間は速いが、夢中のことをたくさんやるとどうなるのか、それはたくさんの興味のないことを夢中でやるのと同じことになるなのか。難しい。
はなはだ不徹底な結論になってしまったのは遺憾だ。
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