師走の出来事(日本史上の年表記についての問題)

 日本での新暦(西洋暦・太陽暦)使用は明治6年からのことだ。
 と言ってから、これはこれで間違いないのだが事態を誤解なく記述できているかとなると少し言葉が足りないと気が付いた。もう少し詳細に言わなければならない。
 ものの本には明治5年12月3日を明治6年1月1日としたと書いてある。そういうことなのだが、実は12月3日という日はなかったのだからこの言い方はちょっと変えたほうが良い。正確に記述すると明治5年12月(師走)2日の翌日を明治6年1月1日としたと言ったほうがいいだろう。
 いずれにしろ、冒頭の言い方よりは「新暦を採用した時期は明治5年の12月であった。」と言ったほうが実感としてよく分かる言い方になるようだ。5年と言っても6年と言っても正しいのは面白い。

 以上は別に問題のないことなのだが、問題はこのことを西暦で「日本が太陽暦を採用したのは1872年である。」と書いてある本があることだ。
 諸君はハハーン、この言い方だと上のような曖昧さが残るのだなと気付かれたかもしれないが、いや、そうなのではない。この言い方ははっきりと誤りなのである。
 ちょっと考えてみよう。改暦前夜は明治5年12月(師走)2日である。翌日が3日になるはずであった。それがそうならないで明治6年1月1日となったのだから、我々は明治5年のうちに暦が代わったという実感を持つ、だから明治5年に暦が代わったという言い方ができるのである。
 一方、西暦で言えば改暦前夜は既に1872年12月31日である。そして翌日は1873年1月1日である。このことを1872年のうちに暦が代わったと言えるだろうか。そんなはずがない。西暦で言うときは必ず1873年からと記述しなければならないのである。

図にしてみると、

となるはずが

となったわけである。(参考:日本で実際に行われた明治5年のカレンダー

 こんなことを考えていると、あれ?と、明治5年以前の歴史的日付について大きな問題が存在することに気付く。
 それまでの歴史はすべて旧暦による日付(年月日)で記録されて来た。そしてそれを明治6年になってから全部西洋暦(太陽暦)の年月日に変換し直したわけではない。そうする必要も理由もなかったからである。我々は今でも昔の歴史を旧暦の日付で語っているのである。
 そうすると、厄介なことが起こる。

 ある歴史年表には次のように記されている。

  1702 元禄15 物価低減令・造酒令を下す。 赤穂浪士討入り。

 しかし歴史的事実は、

  1702(元禄15) 物価低減令・造酒令を下す。

  1703(元禄15) 赤穂浪士討ち入り。

 である。なぜなら物価低減令・造酒令は7月(当然旧暦)のことであるが、ご存知赤穂浪士討ち入りは12月14日のことであり、その日はすでに西暦1703年1月30日であったからである。(討ち入りの時刻からすると、現代の感覚では旧暦12月15日未明、新暦1月31日未明と言った方が良い。日付の絶対指標であるユリウス日表示では2343097日であった。※1)

 また歴史事典を見るとはっきりと

  1702(元禄15)年、高家筆頭の吉良義央邸に討入り・・・・翌年2月幕府は一同に切腹を命じた。

 などと書いてある。この記述は二重に誤っている。討ち入りの年は1702年ではないし、切腹命令は西暦では翌年ではなく、その年のことであったからである。

 昔の出来事を無理に西暦で表わそうとするとこのような矛盾・破綻が次々と起こる。

 旧暦の日付は西暦よりもおおよそ一ヵ月ほど遅れている。したがって旧暦の12月はすでに西暦では年が改まっていると思ったほうが良い。日本史年表の、年号は信じて良いが、西暦は必ずしも正しいとは限らないのである。歴史事典などに西暦・年号対照表が載っていることがあるが、大変危うい。日本史の出来事を西暦で表現したり覚えたりするのには注意が必要なのである。というよりも初めから避けたほうが好ましいのである。

 たとえば以下はふつうの日本史年表の旧暦12月の出来事の中からをいくつか抜粋したものであるが、これらの西暦表示はすべてまやかしである。正しくはそれぞれ翌年の数字を記載すべきものである※2。念のため数字を薄くしておこう。

  603     冠位十二階制定
 
645 大化1 難波遷都
 
727 神亀4 渤海使初来朝
 
740 天平12 山背恭仁遷都
 
939 天慶2 平将門新皇と称す
 
1159 平治1 平治の乱
 
1225 嘉禄1 評定衆設置
 
1249 建長1 引付衆設置
 
1321 元亨1 院政廃止
 
1335 建武2 箱根竹の下の戦
 
1336 建武3 南北朝並立
 
1341 暦応4 元に天龍寺船派遣
 
1391 明徳2 明徳の乱
 
1394 応永1 足利義満太政大臣
 
1572 元亀3 三方ヶ原の戦
 
1586 天正14 秀吉太政大臣、豊臣姓
 
1702 元禄15 赤穂浪士討入り
 
1867 慶応3 王政復古の大号令
 
1872 明治5 太陽暦採用

 宿年の誤解を訂正していただく参考になっただろうか。

※1参照:ユリウス日
※2日本史でいうところの西暦年と本物の西暦年は一ヶ月ほど違うと割り切ればよいのだとして討ち入りを1702年であると主張する人があるが、実証的学問としては通用しない。実際問題上は「元禄15年(1702相当年)」などの表記を採用するのが次善の策とも思われるが一般には普及していない。


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