日本史は明治以前、すべて旧暦による日付(年月日)で記録されて来た。そしてそれを明治6年になってから全部西洋暦(太陽暦)の年月日に変換し直したわけではない。我々は今でも昔の歴史を旧暦の日付で語っているのである。
 そうすると、厄介なことが起こる。

 ある歴史年表には次のように記されている。

  1702 元禄15 物価低減令・造酒令を下す。 赤穂浪士討入り。

 しかし歴史的事実は、

  1702(元禄15) 物価低減令・造酒令を下す。

  1703(元禄15) 赤穂浪士討ち入り。

 である。なぜなら物価低減令・造酒令は7月(当然旧暦)のことであるが、ご存知赤穂浪士討ち入りは12月14日のことであり、その日はすでに西暦1703年1月30日であったからである。

 また歴史事典を見るとはっきりと

  1702(元禄15)年、高家筆頭の吉良義央邸に討入り・・・・翌年2月幕府は一同に切腹を命じた。

 などと書いてある。この記述は二重に誤っている。討ち入りの年は1702年ではないし、切腹命令は西暦では翌年ではなく、その年のことであったからである。

 参考図

 

 昔の出来事を無理に西暦で表わそうとするとこのような矛盾・破綻が次々と起こる。

 旧暦の日付は西暦よりもおおよそ一ヵ月ほど遅れている。したがって旧暦の12月はすでに西暦では年が改まっていると思ったほうが良い。日本史年表の、年号は信じて良いが、西暦は必ずしも正しいとは限らないのである。歴史事典などに西暦・年号対照表が載っていることがあるが、大変危うい。日本史の出来事を西暦で表現したり覚えたりするのには注意が必要なのである。というよりも初めから避けたほうが好ましいのである。

 たとえば以下はふつうの日本史年表の旧暦12月の出来事の中からをいくつか抜粋したものであるが、これらの西暦表示はすべてまやかしである。正しくはそれぞれ翌年の数字を記載すべきものである。念のため数字を薄くしておこう。

  603     冠位十二階制定
 
645 大化1 難波遷都
 
727 神亀4 渤海使初来朝
 
740 天平12 山背恭仁遷都
 
939 天慶2 平将門新皇と称す
 
1159 平治1 平治の乱
 
1225 嘉禄1 評定衆設置
 
1249 建長1 引付衆設置
 
1321 元亨1 院政廃止
 
1335 建武2 箱根竹の下の戦
 
1336 建武3 南北朝並立
 
1341 暦応4 元に天龍寺船派遣
 
1391 明徳2 明徳の乱
 
1394 応永1 足利義満太政大臣
 
1572 元亀3 三方ヶ原の戦
 
1586 天正14 秀吉太政大臣、豊臣姓
 
1702 元禄15 赤穂浪士討入り
 
1867 慶応3 王政復古の大号令
 
1872 明治5 太陽暦採用


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