○辞○より
: たごとのつき [田毎の月] 信州更級の棚田にまつわる「田毎(たごと)の月」は江戸時代からたくさんの俳句に詠まれている有名題材である。 しかしこれは不可解な話だ。 広大な一枚田に月は一個だけ映る。その田を何枚に区切ってみても月の数が増えるわけもない。 棚田なのだからいろんな高さの水面があるはずだ。そうするとどうなるだろう。
ほぼ無限遠の月からの光線は平行光線である。それが観察者の目に入るにはそれぞれ赤印の位置で反射しなければならない。そこで次のような棚田を作ってみても、
残念ながらいちばん上の田以外に映る月は陰になって見えない。 もしも一枚一枚の田の水面が近くの山道のある一点の方向に少しずつ傾いていて、棚田集団の水面が全体として巨大な凹面鏡の内面のような形となっているのなら、「田毎」の月は実現されるだろう。しかし、地面ではなく水面が傾くことはありえないのでこれは絵空事である。 やはりこの話はいかにもそれらしくうまく出来た作り話、あるいはいわゆる心象風景的なものなのだと納得しておくぐらいが妥当なようだ。 しかし、もう少し二次的な可能性は探ってみたい。 月は決して星のような小さな点ではない。水面に映る月の影の大きさはどれぐらいだろう。 観察者の目から頂角0.5度のほそながーーい円錐の視線を伸ばしてみよう。その内部に納まる水面いっぱいに月が映ることになる。
目から100メートル離れると円錐の底面の直径は90センチ足らずに、200メートル離れると175センチ程度になるが、視線は斜めに水面に向かっているのだから、ほそながーーい楕円形の水面に放射されることになる。
見上げる角度5〜6度の低い高度の月の影を見る場合ならば図のように楕円の長さは幅の10倍に達する。11〜12度の高度の月の場合なら5倍である。
もし小さな田の畦道の配置が下図のようであれば、そして水がそれぞれいっぱいに湛えられているとすれば、 ← 棚田の上のほうから下のほうを矢印方向に見下ろすと、正面の夜空にある満月が7枚の田に映るのを見ることができる。(下図)
しかしこれは7つの月ではなく、7つに分割された一つの月である。 距離を考えれば小さな田んぼと月の実際の見え方の感覚は よりももっと貧弱だろう。 どうも冒頭に述べたような劇的な情景ではなさそうだ。 なお、このとき朧(おぼろ)月であったり、空がうす曇りであったりすると、もっと大きなぼんやりした光の塊がより広い範囲の田に映ることになるが、名月が田毎に映るという感慨は完全に失われてしまうだろう。 歩くにつれて月が次々と田を移って行く(それもまあ風情はあるが)とか、水面にさざ波が立って方々の田がちらちらと光るとか、というのは「田毎」とは言わないだろうなあ・・・・ しかし大体、「田毎の月」などという素晴らしい光景があったらテレビが放っておくはずがない。あなたはテレビで見たことがありますか?ないでしょう?私もテレビでも写真でも見たことがない。(しかし見たくて見たくてしょうがない。) しかし冒頭の○辞○の「・・・が有名。」という記述はすごい(^o^)丿。まるで確固としてそこにあるみたいだ。(まあ、「同時に映る」とは書いてないからそこは許すか。) * 「いや、実際に田毎に映るのだ。」という投書をいただいた。大喜びで読んでみたのだが、その理由が「日食の時、木漏れ日によってたくさんの日食の形の太陽が地面に映るのと同じである。」ということなのだそうだ。 本当に田毎の月が見えるとしたらこんなロマンはない。さらなる情報をお持ちの方はお知らせいただきたい。 と言ってから随分経ったが進展はない。永久にないだろうなあ・・・(T_T) 追記:大きな鏡を何枚も使って(少しずつ傾けて)田毎の月を再現するというパフォーマンスが地元で行われたという。何をかいわんや。地元がそうならもう諦めるしかないか。 参考:広重の描いた田毎の月
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