娘が小さいときに、私が「今度横浜へ遊びに行こうね。」と約束したら、次の日娘は「こんどヨカマホ。」と言ってきた。 ちょっと考えてみよう。 それはきっと → YO KA MA HO のように、ローマ字のレベルで入れ替わってできたに違いない。 さて、当然このような入れ替えが可能であるためには、「コ」や「ハ」や「マ」の発音が子音と母音の組み合わせでできているという分析ができていなければならない。 日本語では例えば「コ」の発音を「K」と「O」に分けて発音することはないし、また娘は五十音図の仕組みを知っているわけでもない。なのになぜ、このような入れ替えが可能であるのか。 言語学では「音素」という言葉を使う。上に言った子音や母音が一つの音素である。それ以上は分けられない小さな単位という意味で「素」と言うのである。 動詞の活用について、仮名レベルでは 書か ない と説明するところを、音素の概念を用いれば /kak anai/ となる。そしてこのような方式を用いると活用の異なるさまざまな動詞のいろいろな変化の仕組みを従来より厳密で合理的に記述することができるので、音素の概念の有用さは明らかなのである。 しかし、はたして「kak」などという実際に発音もしないし、普通の日本人が考えもしない形を語幹として認めてよいのだろうか。そんな文法は正当と言えるだろうか。 さて、このような疑問に対する一つの答えが冒頭の言い間違いの現象なのである。 人間には元々自然に備わったある種の言語能力があるらしい。そしてそれはどの言語を母語として獲得するかに関係なく、生まれたときにはすでに備わっている人類に共通の性質のものらしい。だからこそ、どんな赤ちゃんでも、どこで誰に育てられようと、立派にそれぞれの母語を獲得していく。 つまり、音素を知らないと思われた私の娘に音素の入れ替えが可能であったということは、人類共通の仕組みには「音素」が含まれており、音素の存在を実感することのない日本人の脳もやはり音素を基礎として一つ一つの仮名の発音を組み立てているということなのだ。 この仕組みは、時には新語を生むことがある。古い例を挙げれば例えば「あらたし(新たし)」から「あたらし(新し)」が生まれたのは仮名レベルの入れ替えで説明がつくが、「あらぶ(荒ぶ)」から「あばる(暴る)」が生まれたのは音素レベルの話になる。 娘にはまだ他にも面白い言い間違いがあったなあ。「山本さん」を何か「やもたもさん」とかなんか言ってなかったっけ。 そんな娘も今ではまともにしゃべっている。代わりに孫の言葉でも観察してみるか。
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