江戸名所図会
江戸時代の仮名遣い(5)
一般向けの観光案内として人気のあった江戸名所図会(1836)の仮名遣いを見てみましょう。
内容や読者層の違いによるものか、仮名遣いの印象は「東海道中膝栗毛」とはずいぶん異なります。同音の仮名を恣意的に用いているわけではなく、例えばは行動詞の活用表記は原則的に安定しており、全体として一定した仮名遣いの体を為していると見えるものになっています。単発的な瑕疵はあるものの仮に明治以降に書かれた本として見ても違和感のない種類の間違いと言ってよいものばかりです。
江戸時代一般教養人の大よその仮名遣い意識が窺えるものといえましょう。例として巻の四から挿絵中の説明文のいくつかを取り上げます。濁点を補い、仮名の字種は標準体に改めてあります。
淀橋水車
淀 ばしは〔 成子 と〔 中野 との間にわたせり〔
大橋小橋ありて橋より此方 に〔 水車回轉 る〔 故 に〔 山城 の〔 淀 川に〔 準 へて淀橋と〔 名付 べき〔 旨 〔 台命 ありしより〔 名 とすといへり〔
大橋の下を流 るるは〔 神田 の〔 上水堀 なり〔
小金井橋 は小金井〔 邑 の地に〔 傍 ふ〔 〕て 流 るる所の玉川上水の〔 素堀 に〔 架 す故に此名あり〔
岸 を〔 夾 む〔 桜花 は〔 数千株 の〔 梢 え〔 〕を 並 べ〔 落英繽粉 たり〔
開花 の〔 時 此〔 橋上 より〔 眺望 すれば〔 雪 とちり〔 雲 とまがひて〔 一目千里 前後〔 盡 る〔 際 わ〔 〕をしらず
仍 て〔 都下 の〔 騒人 〔 遠 を〔 厭 ずしてここに〔 遊賞 するもの少からず〔
橋頭酒 を〔 煖 め〔 茶 を〔 煮 るの〔 両三店 あり〔
遊人 或は〔 憩 ひ或は〔 宿 す〔 春の夜は さくらにあけて しまひけり 芭蕉
高田天満宮 〔 此辺に
藝花園 おほく四時に〔 花絶 ず〔
宗岡里 〔 内川 〔
伊呂波 〔 樋 は〔 昔 〔 此地 の〔 領主引又 より〔 川 を〔 隔 てて〔 宗岡 の〔 地 へ〔 樋 を〔 通 し〔 農耕 の〔 助 とせられし〔 頃 四十八〔 段 に〔 掛 たりしにより〔 此称 ありといへり〔 回國雑記
むね岡といへる所を通りはべりけるに夕の煙をみて夕煙あらそふ暮をみせてけり 我家々の むね岡の宿 道興准后
久米 〔 川 〔 回國雑記
くめくめ川と云所はべり
里の家々には井などもはべらでただ此川を汲て朝夕もちひ※はべるとなんまうしければ里人のくめくめ川とゆふぐれになりなば水はこほり こそせめい もぞする 道興准后
相異部分:歴史的仮名遣い
そふて:そうて
こずえ:こずゑ
きわ:きは
※もちひ:(上二活用としては正しい。上一としては「もちゐ」だが当時の研究水準では「もちひ」が正しいとされていた。)なほ、字音仮名遣いについても相当気が配られていることが分ります(本居宣長の「字音仮字用格」は1776年)。現代の水準から見て問題になるのは次の二点のみです。
すゐ(水):すい(当時の研究水準では「すゐ」が正しいとされていた。)
きやう(橋):けう