土 現代仮名遣い表記
土佐日記
「土佐日記」(西暦九三五年頃)は仮名日記文学最初の作品として有名です。
冒頭の「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」は、男性の日記と言へばもつぱら漢字ばかりで書かれた日誌類を指した当時にあつて、敢へて女手と言はれる仮名をもつて新たな散文学を興してみようといふ気概を示したものととることができます。古今集仮名序を書いた紀貫之ならではの宣言と言へませう。さうしてこの作品に先導されるやうに、この後本物の女性たちによる仮名文学が花開いて行くことになります。
奇跡的なことに、後世の藤原定家が作者紀貫之自筆原本の最後の2ページ分を忠実に模写した臨書が今にまで伝はつてゐますので、原本が実際にどんな文字で書かれてゐたのかを知ることができます。
まづその部分をふつうの漢字仮名交じり文に書き換へるとどうなるかを示します。
「生まれしもかへらぬものを我が宿に小松のあるを見るがかなしさ」とぞ言へる。
なほ飽かずやあらむ、またかくなむ、
「見し人の松のちとせに見ましかばとほくかなしき別れせましや」。
忘れがたく口をしきことおほかれどえ尽くさず。とまれかうまれ疾くやりてむ。
次に問題の臨書に記された文字の字種、字体の大よそのイメージを示します。厳密に実物通りの形ではありません。(連綿線は省略。下段は元になつた万葉仮名。)
臨書の現物を見ると後のしつかりと様式化された流麗さではない素朴で不揃ひな生硬さと、連綿のぎこちなさを感じますが、それがどの程度原作本の筆跡を反映してゐるのかは分かりません。
現代の字種に書き替へれば
むまれしもかへら ぬものをわかやとに
こまつのあるをみる かゝなしさとそいへる
なほあかすやあらむ またかくなむ
みしひとのまつのち とせにみましかは
とほくかなしきわかれ せましや
わすれかたくゝちをし きことおほかれと
えつくさすとまれ かうまれとくやりてむ
ここに出てくる「む」(臨書では「ん」と見える字)はすべて「ム」といふよりは口を閉ぢた「ン」のやうに発音されたと思はれます。現代の字種表記でも冒頭の「む」以外は「ん」と書いてよい性格のものと言へます。これがのちに撥音表記として「ん」の仮名が確立する元となりました。
またこの時代には「あ行のえ」と「や行のえ」の混同が始まつてゐましたが、この作品ではしつかり区別されてゐると考へるならば「えつくさす」の「え」の字体はあ行であることを示してゐることになります。(参照)
現代における読み方を仮に現代仮名遣ひの書き方で示せば
う※まれしもかえら ぬものをわがやどに
こまつのあるをみる がかなしさとぞいえる
なおあかずやあらん またかくなん
みしひとのまつのち とせにみましかば
とおくかなしきわかれ せましや
わすれがたくくちおし きことおおかれど
えつくさずとまれ こうまれとくやりてん
といふことになります。※古語においてま行・ば行の直前となる「む」
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