解答 4
赤字は現代仮名遣いと異なる部分です。
吾輩は猫である。名前はまだない。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いてゐたことだけは記憶してゐる。吾輩はここではじめて人間といふものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生といふ人間中でいちばん獰悪な種族であつたさうだ。この書生といふのは時々我々をつかまへて煮て食ふといふ話である。しかしその当時はなんといふ考へもなかつたからべつだん恐ろしいとも思はなかつた。ただ彼の手のひらに載せられてスーと持ち上げられた時なんだかフワフワした感じがあつたばかりである。手のひらの上で少し落ち付いて書生の顔を見たのがいはゆる人間といふものの見始めであらう。この時妙なものだと思つた感じが今でも残つてゐる。第一毛をもつて装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬罐だ。その後猫にもだいぶ会つたがこんな片輪には一度も出くはしたことがない。のみならず顔のまん中があまりに突起してゐる。さうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうもむせぽくてじつに弱つた。これが人間の飲む煙草といふものであることをやうやくこのごろ知つた。
この書生の手のひらのうちでしばらくはよい心持ちにすわつてをつたが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのかわからないがむやみに目が回る。胸が悪くなる。たうてい助からないと思つてゐると、どさりと音がして目から火が出た。それまでは記憶してゐるがあとはなんのことやらいくら考へ出さうとしてもわからない。
ふと気がついてみると書生はゐない。たくさんをつた兄弟が一匹も見えぬ。肝心の母親さへ姿を隠してしまつた。その上今までの所とは違つてむやみに明るい。目を明いてゐられぬくらゐだ。はてななんでも様子がをかしいと、のそのそはひ出してみると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ捨てられたのである。
やうやくの思ひで笹原をはひ出すと向かふ※1に大きな池がある。吾輩は池の前にすわつてどうしたらよからうと考へてみた。べつにこれといふ分別も出ない。しばらくして泣いたら書生がまた迎い※2に来てくれるかと考へついた。ニヤー、ニヤーと試みにやつてみたがだれも来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡つて日が暮れかかる。腹が非常に減つてきた。泣きたくても声が出ない。しかたがない、なんでもよいから食ひ物のある所まで歩かうと決心をしてそろりそろりと池を左に回り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりにはつて行くとやうやくのことでなんとなく人間臭い所へ出た。ここへはひつたら、どうにかなると思つて竹垣のくづれた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れてゐなかつたなら、吾輩はつひに路傍に餓死したかもしれんのである。一樹の陰とはよく言つたものだ。この垣根の穴は今日に至るまで吾輩がとなりの三毛を訪問する時の通路になつてゐる。
※1「向かう」説もある。(参照)
※2原作では「迎に」であるが、現代仮名遣いの刊行本では「迎いに」としている。現代仮名遣いで「迎えに」ならば歴史的仮名遣いは明らかに「迎へに」と確定できるがここは転訛(訛り)による音なので「ひ」ではなく「い」を採用した。参考:「しんまい(新前)」、「はい(蝿)」、「迎い」などは古くから「しんまひ」「しんまい」、「はひ」「はい」、「むかひ」「むかい」と書かれてきたが、これらの「イ」音は正当な「ひ」の転呼ではなく「エ」音の転訛(訛り)と考えられるので「い」の表記が適当であろう。
参考のために全仮名表記もごらん下さい。