や ま な し の学習


作者について

 宮沢賢治は明治29(1896)年岩手県に生まれました。幼い頃から自然に親しみ、農業専門の学校に学んで農業学校の先生になりました。
 その後先生をやめて自ら農業に従事し、また農民の生活向上を願って農業技術指導を行いましたが、昭和8(1933)年、病気のため37歳でなくなりました。
 仏教を深く信仰し、若いときから沢山の詩や童話を書きましたが主に死後になってから評価されるようになり、有名となりました。
「やまなし」原文  「やまなし」は作者が最愛の妹を失った翌年、大正12(1923)年4月8日の岩手毎日新聞に掲載されました。
 左のリンクで読む本文は教科書に載っている文章とはちょっと違いますね。これは作者が書いたとおりの「歴史的仮名遣い」と言われる書きかたのものです。当時はこれが正しい書きかただったのです。

 歴史的仮名遣いでは
 「ゐ」は「い」と読みます。
 語頭以外の「は、ひ、ふ、へ、ほ」を「わ、い、う、え、お」と読む場合があります。
 「さう」を「そう」と読む場合があります。
 「やう」を「よう」と読む場合があります。
 「らう」を「ろう」と読む場合があります。
 「を」を助詞以外に使うことがあります。
 小さく書く字はなく、全部大きく書かれます。

歴史的仮名遣いに興味のある方はこちらをご覧下さい。

 原文にある振り仮名はそれぞれのページの下に示してあります。

 

前書き

「やまなし」  山に生る梨という意味です。「やまなし」と発音するときの標準アクセントは「ドミミミ」です。「ドミドド」と発音すると山梨県の意味になってしまいます。
 作品の題名が「かに」でもなく「かわせみ」でもなく「やまなし」なのはなぜか、最後に考えてみましょう。
谷川  谷川は中流や下流とは違って流れは小さく、水は澄んでいます。
 作者の童話には谷川がよく出てきます。なぜ好んで谷川を選んだのでしょうか。
 もし谷川を人間に例えるとどんな人間ということになるでしょう。

 これからこの谷川にはいろんなものがやって来ます。どんなものが登場してくるか順番に数えてみましょう。

幻燈(灯)  絵の動かない小さな映画のようなものです。
 透明の薄い紙やフィルムに描いた絵を幻灯機(電球とレンズのついた箱)に入れて、部屋を真っ暗にして白い壁やふすまなどに映写して見ます。子供用のおもちゃの幻灯機もありました。
 ところで、なぜ作者は最初と最後でこの話を幻燈だと断っているのでしょうか。
 幻燈だと思って読むのとそうでないのとでは読んだあとの感じはどう違うでしょうか。
 作者の作品には青という色がたびたび出てきます。本当に青いものを青いと表現することもありますし、普通の人が青いと思えないものを青いと表現していることもあります。
 作者は若いときから青い色に特別の関心を持っていました。時には不安や恐怖を感じる景色や心境を青白いと感じました。同時に美しい風景をも青いと表現し、大正11年に亡くなった最愛の妹「とし」さんの持っていた特性を青い色だとも言っています。作者にとってどうしても気になる色、作者を生涯とりこにしていた色、それが青なのです。

 この作品には他にどんな色が登場しているかも調べてみましょう。

二枚  2という数字は「対立」あるいは「対比」に関係があります。二つの正反対のもの、例えば大小、上下、真偽、善悪、美醜、男女、・・・などは対比的関係にあります。
 一枚ではなく二枚の幻燈としたのは一枚目と二枚目とで何かを対比的に表わそうとしたのでしょうか。

 

五月

五月  五月は自然の勢いが盛んな時期です。陽光は強くなり、植物は繁茂し、動物は活発に活動します。そんな時期なのですが、生き物たちにとって必ずしも嬉しいことばかりとは言えないことも・・・
二疋の蟹の子供ら  日本の谷川に棲むカニはサワガニです。甲羅は幅2〜2.5センチ程の丸みのある逆さの台形で、オスのはさみはふつうは右の方が大きいです。
 話の主人公としてカニが選ばれたのは、谷川に住む動物の中では、手足がはっきりとしてその動きが擬人化しやすい所からでしょう。
 作者の童話には幼い兄弟(兄妹)がよく登場します。
 作者自身には多くの弟妹がいましたが、すぐ下の妹のとしさんと話がよく合ってとても仲の良い兄妹だったようです。そして彼女が亡くなった年(大正11年)、としさんのことをたくさんの詩に書きました。また、いろんな童話の中にも仲の良い兄妹を登場させました。
 作者の童話で幼い兄弟(兄妹)が出てくるものは他に何があるか調べてみましょう。また、どうして幼い兄弟の話を多く書いたのか考えてみましょう。
水の底  カニたちにとって水面は天井です。カニの目に見える景色を想像して水の底の気分を味わいましょう。
クラムボン  クランボンと読みます。(昔は例えばラムプ、オリムピックと書いてランプ、オリンピックと読んでいました。)
 でも意味は何だかよくわかりませんね。笑ったり、跳ねたり、死んだりするもの・・・。

 泡? 光? アメンボ? カエル? 貝? 仲間のカニ? 人間? 何か小さな生き物? ・・・

 クラムボンという言葉は目が「くら(眩)むもん(物)」に似ています。
 クラムボンという言葉は英語のクラム(Clam)にちょっと似ています。Clamは貝のことです。
 クラムボンという言葉は英語のクラブ(Crab)にちょっと似ています。Crabはカニのことです。
 クラムボンという言葉はひっくり返すとボンクラに似ています。ぼんくらって人間のことかな?
 クラムボンという言葉はなんとなくプランクトンにも似ています。

かぷかぷ  笑う形容としては「かぷかぷ」という言葉は珍しいですね。作者の発明のようです。
 このように作者は多くの珍しい擬声語、擬態語を使いました。みんなが使う普通の言葉では表わし切れない微妙な感じを表わそうとしたのでしょうか。

 「かぷかぷ」は「かぱかぱ」に似ていますが、それよりも○○○な感じがします。
 「トブン」は「ドブン」に似ていますが、それよりも○○○な感じがします。
 「ぼかぼか」は「ぷかぷか」に似ていますが、それよりも○○○な感じがします。
 「もかもか」は「もくもく」に似ていますが、それよりも○○○な感じがします。

 実は「ぼかぼか」は掲載した新聞の誤植(印刷の間違い)である可能性があります。以前に書かれた別の原稿には「ぽかぽか」と書いてあるのです。

 擬声語、擬態語のことを「オノマトペ」といいますが、作者はオノマトペの名手です。

 水の中では水面を見上げても外の景色が全部見えるわけではありません。真上の方以外は水面に川の中の景色が写って見えるのです。日光の差し込んでいない谷川なら見上げる水面も回りも暗いでしょう。
 作者はたびたび暗い空のことを鋼に例えました。鋼は硬い鉄で、見る方向によって青く光って見えます。作者が空を冷たくて薄くて硬い鋼のように例えた時は確かにそんな気持がしたのでしょうが、その後、鋼の比喩は作者のお決まりとなっていきました。ここでもその比喩を使っています。
水銀  銀色に光る液体の金属です。昔は体温計や温度計の中に使われました。少量だとコロコロとした転がりやすい玉になります。水の中に泡があると水銀の玉そっくりに見えます。
光の網  水面にはいろいろ違った方向からの波が重なって網目のような波模様ができています。それが水底に映るのです。
影の棒  山の雪解け水で勢いのいい流れはたくさんの細かい砂や塵を含んでいるでしょう。また、暖かくなってきた水の中にはプランクトンなどの目に見えない生き物たちもたくさん元気に動き回っていることでしょう。
 水や空気の中に非常に細かいものが浮かんでいると、そこを通る光の道筋がはっきりと線になって見えるのです。この様子をチンダル現象と言います。作者はこのような物理化学的現象に深い興味を持っていました。ですからこれに似た場面は他の作品にもいろいろ書かれています。
はじ  はし(端)。
かわせみ  水辺に棲む瑠璃色の美しい、嘴(くちばし)の大きい鳥。木の枝などに止まって魚を狙い、もの凄いスピードで頭から水中に飛び込み嘴で魚を挟んでまた枝に戻り丸呑みします。
 水の中からは事前にカワセミの姿はよく見えません。そのためにのどかな水中に予兆なく全く突然に死はやって来ます。
 カワセミはなぜ魚を捕まえるのでしょうか・・・ きれいな服を着て、遊びで魚を捕っているのでしょうか。
樺の花  教科書にはひらがなで書いてありますが、漢字にすると「樺」の花です。樺というのはふつうシラカバやダケカンバのことを言います。また桜、特に山桜類の木の皮のことを樺といい、樺皮細工(かばざいく)に利用されます。
 作者はシラカバの他に山桜のことも樺と言いますし、白い花びらということも考えるとここでは山桜のことを言っているのだとわかります。
 魚の死の後に流れてくる花。お葬式のようではありませんか?

 

十二月

十二月  まず五月とは何と何が変わっているか考えてみましょう。
 子ガニはどのように成長しているでしょうか。
 カニたちのようすは五月と比べてどうでしょうか。
 谷川の水のようすは五月よりもどんな感じがするでしょうか。
 また五月を読み終った気分と十二月を読み終った気分を一言ずつで表すとどうなるでしょう。

 冬を迎えて自然の勢いは衰えています。勢いの良かったときに比べると、静かな寂しい季節です。このままみんな衰えて消えていってしまうのでしょうか。
 でもこの季節には勢いの良かったときの蓄えが残されていないでしょうか。その蓄えはこのあとどうなっていくのでしょう。

 実はこの「十二月」も掲載した新聞の誤植ではないかと言われています。以前に書かれた別の原稿には「十一月」と書いてあるのです。あなたはどちらの方がふさわしいと思いますか。

水晶、金雲母  十二月の冷たく透き通った水は川底の石や細かい鉱物を素晴らしくきれいに見せるのでしょうね。(魚やカニやカワセミなどは生物ですが、石や鉱物は無生物です。川の中は生物と無生物で出来ているのです。)

 作者は鉱物に強い興味を持ち、どんなありふれた石や砂の中にもすぐにいろんな鉱物を見つけ出しました。
 川の流れに砕けた岩からはさまざまの鉱物がこぼれ出てきます。ですからこれは特別な珍しい景色ではなく、(作者にとって)ごく普通の谷川の当たり前の風景の描写なのですが、私たちにとってはとても魅力的な特別の川のように思えます。

 水晶は錐の先端のように尖った形の透明な結晶です。雲母は石の中に小さく黒く見え、薄くはがれやすい柔らかい鉱物です。色の薄いものは金色に見えます。

ラムネの瓶の月光  ラムネの瓶は青緑色をしています(今は白っぽいものもありますが昔はみんな青緑でした)。ラムネは今よりもおしゃれな感じで、しかし身近で、みんな大好きでした。他にも同じ色のガラスはありましたが、やはりラムネの瓶を通した光の感じは特別なのです。
青じろい火  もちろん本当に火が燃えているわけではないのですが、ここは目を閉じて、ほんとうに青白い火が見えてくるまで情景を絵のように思い描いてみましょう。
いるよう、  「いるようで」の「で」を省略するのが作者独特の語法です。
しんとして  自然の神秘さを表わすときに作者が好んで使う語です。「風の又三郎」などにもたくさん使われています。
波の音  他にはどの場面でどんな音がしているでしょう。
イサド  明日「イサド」では何があるのでしょう。この時期何か楽しいことがあるとしたらどんなことなのでしょう。

 同じ作者の「種山ケ原」と「風の又三郎」の二つの童話に「伊佐戸」という地名が出てきますが、これは岩手県の北上川の支流、人首(ひとかべ)川の下流に位置する「岩谷堂(いわやど)」(今の江刺市の中心部)から思いついて作った地名だろうと言われています。また同じく支流の伊手川のほとりの「伊手」の「伊」に「里」を付けたものだろうという意見もあります(この地方には「・・里」という地名が多く、方言では「・・さど」と発音します)。いずれにしろ、そうするとカニの親子はその町のお祭り(この時期の祭りは豊かな実りに感謝する祭りです)か何かを見に行く約束をしていたのでしょうね。
 でも、カニの親子は遠くの町の方まではるばる歩いてそれから川を出てのこのこ行くのでしょうか・・・ どうもそうではなくて、川の中に何か私たちの知らない楽しい場所があるのかもしれませんね。

黄金のぶち  ヤマナシの表面に付いた空気の粒が月光を受けて、そこだけ実が金色に光るのでしょう。
 「ぶち」とは、地色と違う色が まだら や斑点状になっていることです。例えば体の色に斑点がある
犬を「ぶちの犬」と言います。

 「大辞泉」によると「ぶち」とは「地色と異なった色がまだらになって入っていること。また、そのような毛並みの動物。」です。

遠めがね  望遠鏡。望遠鏡のような目をできる限り精いっぱい伸ばして。
やまなし  五月には外からカワセミがやってきました。こんどはヤマナシがやってきたのです。この二つはどう違うでしょうか。

 普通の梨の先祖が山に生えていることもありますが、それとは別のオオズミのことも「やまなし」といいます。
 山に生る梨は大昔に中国から輸入されて人家の近くに植えられたものが残っているのだそうです。現代に栽培されているものより小さい実が生ります。岩手県にはイワテヤマナシと呼ばれる種類のものがあり、3センチぐらいの酸っぱい実が生るそうです。
 オオズミは山に自生して5月ごろ白い花が咲き、小さな実は黄色または紅色に熟し、霜の降りる頃になるとやや甘くなります。山リンゴともいいます。
 このどちらだったかはわかりませんが、カニたちはよだれが出たことでしょう。

影法師  もともと人間の影のことを言う言葉ですが、ここではカニの影のことです。
月光の虹  虹は霧に光が当たったときに見えるものです。このとき辺りには霧がかかっていたのでしょうか。
 もし霧に月光が当たった本当の虹でないとしたら、どうして虹のように見えたのでしょう。
おいしいお酒  ものが腐るときにそのものがおいしくなることがあります。そのことを発酵といいます。そして発酵する時にアルコールができるとお酒になります。
 ものが腐るということは、実は無数の目に見えない微生物たちがそのものを食べて消化しているということなのです。そしてその微生物の排泄したものが別の生きものにとってはおいしい栄養になるのです。
 ここでは枝から落ちてしまったヤマナシの実を微生物が食べてアルコールを排泄するわけですね。カニたちはそれが待ち遠しいのです。

 (腐ったものがまずい時や毒になるとき、人間はそれを腐敗といいます。おいしいときは発酵といいます。人間は自分たちの好き嫌いで言い分けていますが、どちらも微生物たちの同じ消化活動なのです。)

 カワセミに食べられた魚は死にました。それを食べたカワセミもやがて死にます。カニのお父さんも兄弟たちもやはり死んでいきます。そして川の底で魚たちや小さな虫たちの餌になり、それでも残った体は腐っていきます。楽しいことや怖いことなどたくさんの思い出とともに消えていくカニたちの命はいったいどこへ行くのでしょう。きれいさっぱりこの世から消滅してしまうのでしょうか。

 いろんな生物の死体が微生物によって消化されて土の中や水の中にたまり、それが植物の成長の栄養となり、実が生ります。そしてその実がまた微生物や鳥や魚やカニなどの生き物に食べられ、次にその生き物が死ぬとそれはまた別の生き物たちの栄養となって・・・  このようにしてしまいにはまた土の中や水の中の栄養になります。
 ということは生き物たちの命というものは・・・・・・・

 (作者の頭の中にはきっと亡くなった妹さんのこともあったに違いありません。)

金剛石  ダイヤモンドのことです。
 作者は宝石類も大好きでした。もちろんダイヤモンドは最も高貴なものの例えとして使われました。ここでは何が高貴だと考えられるでしょうか。

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